シュプールをきざむ

トマム、安比、蔵王、天元台、猪苗代、上越、草津、白馬、栂池、志賀、戸狩、野沢、妙高…。
スキー専用列車<シュプール号>が全盛時代の頃、首都圏から行けた山々です。

国鉄末期にバスツアーに対抗して登場し、JR各社に引き継がれた<シュプール号>は徐々に少なくなり、ついに2005-2006シーズンはJR西日本の関西-妙高系統1往復だけになってしまいました。既に4年程前に運転をやめてしまったJR東日本エリアでは、ほとんどのスノーエリアが新幹線でカバーできるようになったこと、そして民営化後はJRがみずから旅行業を立ち上げ、新幹線利用であろうと旧国鉄の運賃制度ではとてもムリだった低運賃を自由に設定できるようになったこともシュプール号という特別列車をあえて設ける必然性が薄れた理由に思えます。その他JRとしての理由はもろもろあるでしょうが、最大の理由はやはり猫も杓子もスキー場に押し寄せなくなったという冬の遊び方の大変化にありそうです。

・・・・・・12月の声を聞く頃リリースされるユーミンの新譜をカセットに落とし、神田小川町のスキーショップ街を徘徊していた恥ずかしいほどステレオタイプな自分の居た20年前の世情にこそ<シュプール号>は似つかわしい列車でした。新宿発トマムゆき<夢空間・北斗星トマムスキー>なんて列車はあの華やかで脆かった時代を映す鏡のような存在だったとぼくは思います。冒頭に挙げた山々の中にもバブル期に調子に乗って莫大な資金を投下してオープンしたあげくに破綻してしまったところがいくつもあります。。リゾートという夢のようなコトバに踊らされていたあの時代こそが異常だったのですが、自然を壊して作ってしまったスキー場を元の山に復元させるには作るときの何倍もの経費と、何十倍もの時間が必要です。

さて、1998-1999シーズンのカットを二葉お目にかけます。大船発小出ゆき<シュプール上越1号>は青森運転所の、神戸発・北越急行経由越後湯沢ゆき<シュプール野沢・苗場号>は向日町のそれぞれ583系がその勇姿を上越線に現していました。

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石打丸山スキー場をバックに石打駅を発車する<上越1号>、なぜ営業前の早朝なのにゲレンデのナイター照明が点いているかというと圧雪車による整備作業用照明としてであります(勤務者だから知っている・・・)。


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98-99シーズンの最終運転、たしか3月28日頃だったと思います。そばにめぼしいゲレンデはないのになぜか停車駅だった大沢を後にする<野沢・苗場号>。神戸から乗り換えなしでここまで来れる列車があった、ということに撮った本人が久々にポジを見て感無量状態。

あたたかな春雨が残雪を濡らして霧が立ち上る朝でした。先頭車両から女の子が2人下車しただけですぐの発車。雨に打たれながら長いホームを歩みはじめた彼女達を寝台電車の大柄な車体が見送りながら走り去ってゆきました。
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# by y-gotosan | 2006-02-14 22:21 | 上撰 越乃白鷹

シンクロ (new arrange)

さて、帰って来ました(笑)。

昨年の2月11日、会社を一時抜け出して、「工場」と呼んでいる自社の施設から撮ったものです。鉄道漢さんも湯沢近くでスタンバイされておられた筈。雪中を翔ぶ<はくたか>に熱くなっていましたよね。

私はリフトとのからみだけを考えて布陣しました。6秒間隔、4m/sで動くリフト搬器と<はくたか>のシンクロナイズド・・・。

前にも一度アップした写真ですが、改めて作画しなおしてみました。
<2005.2.11 越後湯沢-石打 8064M はくたか84号>

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# by y-gotosan | 2006-02-12 21:31 | 上撰 越乃白鷹

春をめざす旅 Ⅵ

阿波池田経由、小松島港行き・・・

はじめての四国、徹底的な鉄道オンリーの旅でした。

朝の高松駅です。通勤ラッシュは特急型以外のすべての車両総動員体制というのはいずこも同じ。でも架線のない広々としたターミナル駅に居並ぶのはこんな連中。この頃の四国には電化区間はありませんでした。いまは再開発されモダンな駅になったと聞いていますが・・・。

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そんな通勤列車の折り返し、高知行き第231列車に竹輪と缶ビールを提げて乗り込みました、。もともと少なかった乗客は多度津までにほとんどが降りてしまい、四国山地に分け入る頃には最後尾のオハフ33の中に居るのは私だけになっていました。

瀬戸内と太平洋を隔てる分水嶺に近い坪尻駅。上り特急<南風2号>と行き違いです。スイッチバックの行き止まりホームによっこらしょと腰を据え待つことしばし・・・、山峡に重厚なエンジン音が轟いたと思えば、瞬く間にトンネルに吸い込まれて行きました。

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客車から立ちのぼるのは暖房の蒸気です。旧型客車は自前の暖房装置は持っていません。かつては蒸気機関車が当たり前でしたから、機関車から発生する蒸気を分けてもらっていたのです。ですから近代化が達成されていくら機関車が黒いケムリを出さなくなっても暖房方式は蒸機時代と変えることはできず、そのためにEF58もDD51もボイラー(さすがに石炭ではなく重油焚きでしたが)を搭載し、DD51やDE10などは貨物列車専用のボイラーなしバージョンを作り分けてもいました。このDE10は当然旅客列車対応バージョン、運転室下部にオレンジ色の「暖房表示燈」点灯が確認できます。

ちなみに。
始発駅でこうした列車に乗り込むと、冷え切った足元のパイプにスチームが通い始めたときにパイプの継ぎ目やコーナーが機関車に近い側から「ドンドンカンカン」と唄い出しそれはそれは賑やかだったものです。

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阿波池田に到着しました。その時点での第231列車の乗客は9人。なぜ憶えているかというとその全員が下車したからです。高知市近郊で便利な時間帯に持ってゆくべく時間調整も兼ねた長時間停車を潮にひとつの役割を終えた、という感じ。途中駅なのに終着駅みたいな雰囲気になりました。
ここで私は徳島本線に乗り換えです。いまなら特急<剣山>でしたっけ、世間では「アンパンマンカー」で有名ですね。でも硬派だった国鉄はせいぜい受験シーズンに「学駅」の入場券で稼ぐ程度のものでした。

なにげに撮っていた<よしの川>と<あしずり>の並びです。こうして見ると四国の急行ヘッドマークはいかに実用第一であったかがわかります。なにしろ急行はぜんぶこの車両だったんですから・・・。間違えて高松に戻らんように・・・、と。
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急行<よしの川>は吉野川沿いの村々を一気に駆け下り、徳島へ。普通列車に変身しそのまま終着の小松島港駅へと向かいます。

小松島線はJR化直前のローカル線廃止の嵐の中で消えてゆきました。牟岐線の中田(ちゅうでん)からわずか一駅1.9キロの小松島駅が正式な終着駅でしたし、その1.9キロが営業距離でしたが、実際にはさらに線路は続き、450m進んだ「小松島港駅」がほんとうの終着駅でした。時刻表では『臨』のマークがつく臨時駅としての扱いだったのが不思議なほどです。季節を問わず、毎日列車は出入りして、のどかな賑わいがそこにはありました。和歌山と往来するフェリー乗り換え駅としての役割があったからです。

のどかな昼下がり、割烹着姿で名物の竹輪を売りさばくオバサンたち、そしてオバサンの商売の場に出札窓口を占領されながらも談笑する駅の職員の方々。

春のようなあたたかな陽射しがあふれていた1985年1月11日の忘れがたい風景です。

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# by y-gotosan | 2006-02-10 00:07 | 汽笛の風景