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もうすぐ一年

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10月23日がめぐってきます。
その瞬間までは楽しくものどかな土曜日でした。午前中の町のイベントに息子が鼓笛隊で出演していました。それがなければ天気もよかったことだしあの奇跡の生還劇のあった道を通って長岡あたりに出かけていたかもしれません。下の娘は昼間遊びすぎて珍しく昼寝中でした。息子はテレビを見ていました、家内は夕食の支度中でした・・・。

17:56の本震で食器戸棚やら本棚は倒れてしまい、その時点で家の中はぐしゃぐしゃになってしまいましたが、ここ六日町で最も揺れたのは18:20頃の大きな余震2回目の震度6弱です。
本震から間もなく停電してしまい、家の中で一夜を過ごすのは困難と判断してクルマを準備しているときでした。足元がすくわれるような激しい揺れに、一緒に振動するクルマのルーフレールにつかまってこらえていたことを今でも鮮明に思い出します。

当時住んでいた家のお隣は定年間近い警察官のご夫婦で、非番だったご主人が職場に急行したあとひとりだけになった奥様を案じて我が家のクルマにお誘いし、あとはひたすら車内でラジオを聞き続けていました。でも同じ事の繰り返しで肝心なことは何もわからない。小出も十日町も避難所を開設したというのは何度も聴いても、六日町のムの字も出てこない。『六日町では幸いさほどの被害はない模様』ならそのことを伝えるべきなのに放送局に電話する機転の利く役場職員はいないのか?次第に腹が立ったことも記憶しています。

この夏、東京でも比較的強い地震があった際に電車が何時間も止まる事態になりました。「週末だったので線路点検をする要員の確保に手間取った」と後日鉄道会社のコメントがありましたが、災害は週末を避けてくれはしません、どんなときにでも有効な初動体制を確立する努力はしなくてはならないはずです。新潟のことを教訓にしているとは思えないコメントをとても残念に思いました。

話しを23日に戻します。次第に体が絶えず揺れているような感覚に陥ってきました。それほど余震は多かったと思います。ラジオも間髪を入れずにその事を報じます。震度3か、弱かったネ・・・、慣れとは恐ろしいものです。「揺れている感覚」はそれから1週間ぐらいは常にありました。
そして寒く、心細かったです。10時を過ぎる頃、お隣の奥様が3キロほど離れたところに居る息子さんの妻子(息子さんは湯沢の旅館で泊まり勤務中)と合流したいということで連れてゆきましたが、交通信号さえ消えた町は静まり返り、暗黒の中でした。経験したことのない闇です。そして満天の星空でした。放射冷却現象で気温はどんどん下がります。クラクションを鳴らして慎重に国道17号線を横断してゆく途上、あちこちで焚き火が始まっていました。火を、そしてそれを囲む人々を目にしたときひどくほっとしたことも記憶しています。

色々なことを考えた夜でした。みな無事でよかったけど・・・仕事はどうなるんだろう・・・子供のトラウマにならないだろうか・・・いつふつうの暮らしに戻るのだろう・・・エトセトラエトセトラ・・・。でもとにかく早く夜明けになってほしかった。
午前2時過ぎ、最優先で電気を送らなければならない役場や警察への送電ルート上に家があった関係でどこよりも早く電気が復旧しました。暗黒が続く町並みにすこし後ろめたさを感じながら、でもすこし安心して眠りに落ちました。

二度と経験したくありませんがこの国に居る限りはもう一度くらいはあるかもしれません。
備えましょう、それしかありません。

あれから2ヶ月ほどはほとんどカメラを触っていません。別に自粛していたわけではなく、そうした気分になれなかったのです。記録はそれを仕事にしている人に任せて、前代未聞の新幹線代行バスも、ガーラ湯沢近くの国道17号とのアンダークロスで終着駅を目前にして地震に遭遇し、それから10日近く同じ場所に止まっていた<はくたか>も撮っていません。1枚だけ、あす小出まで復旧という前日に五日町駅付近でレールを撮りました。赤錆びたレールの先は、大変な被害を受けた堀之内、川口、小千谷方面です。『ガンバりましょう』、赤錆びたレールもいつかは輝きを取り戻す日が来る、自分に、家族に、そしてこの地に暮らすすべての人に気合を入れる感じで撮った「新潟県中越地震」のぼくの唯一の記録です。去年もここで公開していますが再度、エールを送りたいと思います。

『がんばってます このレールも輝いてます 新潟より感謝を込めて』
by y-gotosan | 2005-10-20 22:52 | 汽笛の風景
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